産経新聞2013年7月13日

http://www.sankei.com/life/news/130713/lif1307130008-n1.html

人間教育の実践は、知識伝達の教育とは異なり難しい側面を持つ。理由は3つある。1つ、自分が本当に心の底から思ったことでなければ、人の心には響かない。2つ、どんなに素晴らしい教材でも、それを語る側の人間観・教育観が浅薄(せんぱく)であれば、そこで行われる教育は浅薄になってしまう。3つ、どんなに良いことを語っても、自分の行いと乖離(かいり)していればそれは偽善だとたちどころに見抜かれる。私たち大人が本気で教育や社会をより良いものにすると希求するのならば、一人一人が、「如何(いか)に教えるか」でなく、「如何に学ぶか」「如何に行動するか」に真剣になるしかない。それが教育の本質と思う。

 子供たちに、良き道徳観を持ち、道徳的規範を大切にした生き方をしてほしいと本気で願うのならば、まず大人が道徳的な生き方をせざるを得まい。だが、本当にそれは実現可能か。何が道徳的に正しいか、状況によっては異なる。正しいとされる2つの道徳律が、時に対立する場合もある。人間は矛盾に満ちており、そこに道徳教育の難しさがある。大人ができぬことを子供にだけ要求すれば、不道徳の誹(そし)りを免れまい。

また、定義の曖昧な教育は、あまり成果を出し得ない。「道徳とは何か」という定義をまずは明確にする必要がある。一国の歴史や文化を背景とせぬ道徳はない。道徳的価値観を共有するためには、必然的にわが国の歴史や文化を深く共有することが必要だ。道徳が人と人との関係をより良くするためのものなら、グローバル化の進む現代においては、他国のマナーや価値観を知ることも必要となろう。広汎で深いテーマだ。

 そうした困難を踏まえた上で、子供たちに良き道徳観を育むために何ができるか。私は、子供たちが古今東西の古典文学や伝記をただひたすらに読み、人間の善悪を考える機会を徹底して確保することだと思う。かつて『少年少女世界の名作文学』(小学館版・全50巻)という素晴らしい全集があった。「翻訳は厳正に。文章表現は香り高く平易に。挿絵も原書と同じ物を」。そうした編集方針が貫かれており、川端康成ら編集者たちの慧眼(けいがん)を感じる。

 言葉は心だ。人間の心の陰翳(いんえい)や人情の機微(きび)を鋭く繊細に描き出した言葉は、子供たちの心を豊かにし、思考力を育む。読み継がれてきた文学作品には人間の真実が描き出される。善悪、美醜(びしゅう)、正邪(せいじゃ)、生死の狭間を苦悩しながら生きるのが人間だ。

善を教えたからといって、人は善なる存在になるものでもあるまい。人間は、悪があるからこそ善を希求し、善にあってなお悪の誘惑に常にさらされる不確かな存在だ。現代の我々の賢(さか)しらで人間は如何にあるべきかを教えようとする教育よりも、私は歴史の風雪に耐えた文学と、志高く生きた人々のノンフィクションとしての伝記の教育力を信ずる。自国はもとより、世界の文学を読み、その国の歴史・文化・国民性を学ぶことは、子供たちのグローバル対応力を高める上でも重要だ。

 私たちの祖先が、どのような道徳的価値観とともに生きてきたかを、歴史と古典文学に触れることで自ら感じとること。私たちの命を育んでくれた自然への畏敬(いけい)の念が育まれるような自然体験をすること。与えられた命に感謝し、二度とない人生をどう生きるかという「志」を立てること。私にできるのは、子供たちとともに、その3つを学び続けていくことだけだ。

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