寄稿・コラム
教育に生かしたい「敬う」力
東京五輪誘致のプレゼンで話題になった「おもてなし」という言葉だが、「もてなし」を辞書で引くと、「ごちそう。取り扱い。対応」などとしか書かれていない。私たち日本人にとっては、「おもてなし」の「お」という接頭語のニュアンスや言外の意味こそが重要だ。それは、状況を判断し、相手が求めていることを、視線や表情やしぐさから読み取る「察する力」と、相手を敬い相手の心に寄り添った対応を大切にする「敬愛の心」の2つを要とする。それが世界でも希有(けう)な素晴らしいホスピタリティを可能にしている。
教育は生徒観を磨くことから
バッカーズ寺子屋は今年10期目を迎える。日本の若者の内向き志向が指摘される中、卒塾生たちは高い志を胸に海外を含めた多様な進路に進み、実に頼もしい。 わずか1年間の学びにもかかわらず、9年たった今でも卒塾生のみならず保護者の方からも卒塾後の成長と活躍ぶりを報告していただけることは大変にうれしい。
生きた言葉と行動を磨く
わが国は火山列島であり、私たちの祖先の歴史は、火山の噴火や地震、さらには台風や津波などの自然災害との戦いの歴史でもあった。同時に、水と緑に溢(あふ)れる国土の海・山・川から、豊かな自然の恵みをいただき、深い感謝の念を抱いた。そこから生まれたのは、「自然を神として畏れ敬う」精神性だった。自然の美しさ、恵み、そして破壊力と恐ろしさは人智を超えたものであり、感謝と畏怖の対象として敬う以外になかった。科学技術の力で人間は確かに大きなエネルギーとコンピューターという頭脳を手に入れたが、未だに地震の予測も台風の制御も不可能だ。科学技術への過信が「自然を畏れ敬う気持ち」を失わせ、「文化の継承」を軽視させ、「言葉」を貶(おとし)めてきたのではあるまいか。
今求められる稚心を去る教育
国際社会で、日本の若者は幼稚だといわれている。政治、経済、芸術、歴史、国家、人生などさまざまな領域において自分の考えを持たず、自分の意見を述べられないからだ。グローバルな時代を生きていく上で、これは日本人の大きな弱点となる。その原因は多くの子供たちが、成人するまで、「正解のある学び」と「同調圧力」の中で時を過ごし続けるからだ。
道徳教育の真の難しさを考える
人間教育の実践は、知識伝達の教育とは異なり難しい側面を持つ。理由は3つある。1つ、自分が本当に心の底から思ったことでなければ、人の心には響かない。2つ、どんなに素晴らしい教材でも、それを語る側の人間観・教育観が浅薄(せんぱく)であれば、そこで行われる教育は浅薄になってしまう。3つ、どんなに良いことを語っても、自分の行いと乖離(かいり)していればそれは偽善だとたちどころに見抜かれる。私たち大人が本気で教育や社会をより良いものにすると希求するのならば、一人一人が、「如何(いか)に教えるか」でなく、「如何に学ぶか」「如何に行動するか」に真剣になるしかない。それが教育の本質と思う。
いま求められる「学び方」の変革
多くの経営者の方々とともに寺子屋での教育を実践していて痛感することは、「正解のない問題にどう向き合うか」を学んでほしいということだ。実社会に出れば私たちは、「未知の正解のない問題に対して、複数の解決法を考え、その一つを選択して実行する」ことが求められる。仕事においても人生においても、自分の判断力と決断力を持つことが大切だ。個人の問題として考えれば、「志を立てる」ということもその一つだ。
いま求められる志の教育
「志の教育」を実践し、多くの子供たちや若者たちが「生きる」ことに真剣に向き合い、生き生きしていく姿を見るのは何物にも代えがたい大きな喜びだ。「志」の大切さを伝えるためには、まず「志とは何か」を伝えることが大切だ。「志」と同じような意味を持つ言葉に「夢」がある。講座の開始時に「夢と志はどう違うのか」に触れ、「ビジョン」をつくることの大切さも伝える。