産経新聞2015年12月9日

https://www.sankei.com/life/news/151209/lif1512090022-n1.html

 「教育という抽象的なものは存在しない」。私が教育実践を続けてきて確信していることの一つだ。

 私たちは「学校教育」や「家庭教育」が「良い」「悪い」などと口にするが、「教育」という言葉の実質を突き詰めてみれば、結局は親や教師一人一人の「言葉と行動」に他ならない。どのような言葉で語り、行動するかが全てだ。褒めることも叱ることも何かを伝えることも全ては言葉と行動で表現される。

 それら「言葉と行動」は、個々人の「物の見方」や「考え方」から生まれる。だから、教育に携わる者が、人生観、人間観、仕事観、国家観といった「考え方」を磨かずして、子供たちに良き教育(良き言葉と行動)を授けることなどできはしない。教える者の思いや信念や人格は必ず伝わる。同じ教科書を使って教えても、心に響く授業とつまらない授業が生まれる真因はそこにある。

 ゆえに巷間(こうかん)叫ばれる「教育の荒廃」とは、つまるところ、一人一人の人間の「考え方の荒廃」に他ならない。私たちは確かに、近代以前の人々が夢想だにできないほど多くの知識と情報を得、テクノロジーを駆使している。だが、精神を鍛え、人として誠実に活(い)き活きと生きるための学問を失った。

 近代資本主義の父と称される渋沢栄一は「わが国において、殖産、工業、商売、その他百般の進歩に、比較的罪悪の伴わなかった所以(ゆえん)は、上流社会においては、武士道、中流社会においては、五倫五常の儒教、下流においては、勧善懲悪、因果応報の仏教の力が、あずかって多きにあったと言わねばならない」(『渋沢栄一訓言集』)と述べている。翻って今日の社会の姿を省みるに、武士道も儒教も仏教もすっかりその影を潜めてしまった。道義は廃れ、損得が行動の基準となり、親殺し、子殺し、子供を死に至らしめるような育児放棄やいじめ、大企業や公務員の不祥事等々も日常茶飯事だ。じわじわと私たちの「考え方」は劣化してきたのだ。

 人間は日々、外界から入ってくる情報を五感で受け止め、それによって自分という人間をつくりあげる。1日24時間、1年365日の中で誰と出会い、何に触れ、何を見聞きするかがその人格形成に大きな影響を与える。人を教育しているのは学校だけではない。家族は勿論(もちろん)のこと書物、メディア、映画、大人たちの会話、衣食住、自然や街の風景、あらゆるものが人格形成に影響を与えている。それが浅薄なものになれば、当然、人間も浅薄な存在にならざるを得ない。より良い社会を実現するために問われているのは、大人の「言葉と行動」であり、そのもととなる「学びの質」なのだ。

 橋本左内が『啓発録』で指摘した、志を立てる上で大切な4つのこと「読書・師友・逆境・感激」は、私たちが人格を磨く上でも大切なことだ。特に読書は、人としての在り方を示す経書の香りのする書物を読むことが大切だ。私たちはもっと謙虚に先人の教えを紐解(ひもと)き「学びの質」を変え、自分自身の「言葉と行動」を変革させねばならない。それが教育をより良いものに変えることになる。

 「人間の生き方にはどこかすさまじいものがなければいけません。一点に凝集して、それを達成しなければ、死んでも死なないというほどの執念です。人を教育するよりも、まず自分自身が、この二度とない人生をいかに生きるかに真剣で、教育というのは、いわばそのおこぼれに過ぎないのです」

 国民教育の父と呼ばれた森信三先生のこの言葉は、教育の本質を鋭く突いている。

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