「話すこと」には相手がいて、反応をしてくれます。

「書くこと」には読んでくれる人がいて、反応をしてくれます。また、自分が書いたものを読み返し、自分の中で反芻することもできます。

「読むこと」は、基本的には自分一人に委ねられたものですが、本などであれば、後で、何度も読み返すことができます。

しかし、「聴くこと」だけは、自分一人に委ねられたものであり、どれぐらいの精度で聴いているかは、自分だけにしかわからないものです。また、人の話の場合、それは一回性のものであり、聴くことも、当然1回だけのチャンスということになります。

だから恐いのです。

話しているふりも、読んでいるふりも(音読の場合)、書いているふりも基本的にはできません。音声であれ、文字であれ、相手に伝わる形になるものがあるからです。

しかし、聴くことにはそれがありませんから、いくらでも誤魔化しが効くのです。聞いているふりをしたり、聞き流したり、いくらでもできます。

だから話の聴き方には大きな差が付くのです。

そこで問われるのが、自分の向上心や自制心です。

それによって、話の聴き方はいくらでも変わります。

「聴く」ことは、自分と向き合い、自分を高めていくことですから、自分自身の人生観や人間観がそこで問われているのです。

たかが「聴く」ことの中にも、その人の人生観や生き方、考え方が常に反映されているのです。