私が教師を辞めて良かったと思うのは、何者にも縛られない、自由な教育をさせていただいているからです。

学校にいれば、学習指導要領や試験範囲や、その学校の価値観に縛られます。また、何らかの団体に属すれば、その団体の価値観や思想に縛られます。

無論、教育というものは、共に学んでくださる方がいて、はじめて成り立つものですから、必然的に多くの方に支えられてのものになります。

そこで結果を出し続けなければ、次のチャンスはありません。だから、学び続けなければならない。ということは、組織に属しているよりも、よほど厳しい求道者であり続けねばならないということだと感じています。

しかし、それが教師にとって大切な生き方なのだと思います。

そして、これからの時代の教育に大切なことは、立派な建物を建てることでもなく、制度を整えることでもなく、教える人間がいかに生きるかということだと思っています。

だから、次の森信三先生の言葉は、今に新しい言葉だと思います。また、教育の課題の本質を鋭く指摘した言葉だと思います。

「教育がいわゆる型通りの紋切のものに終わって、相手の心に迫る力を持たないということは、実は教師自身が、一つの型にはまりこんで、その活力を失った結果というべきでしょう。実際はわが国の教育で、現在何が一番欠けているかと言えば、それは制度でもなければ設備でもなく、実に人的要素としての教師の自覚いかんの問題だと言うべきでしょう。

 もちろん問題は、ひとり教師の側のみにとどまらず、生徒の側から言っても、現在の学校制度では、生徒が教師を尊敬する点においても、大いに欠けていることは事実です。しかしながらこの問題も、教師の立場からはやはり一切の責任は、教師としての自分にあるとしなければならぬでしょう。

 かくして今日教育の無力性は、これを他の方面から申せば結局「志」という根本の眼目が欠けているということでしょう。なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、また型どおりに試験も受けてはいます。しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしないのです。

 というのも志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、結局生徒たちに、このような「志」が与えられていない点にあると言えるでしょう。

 何年、否何十年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。

 ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなと言っても歩き出さずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。

 しかるに今日の学校教育では、生徒はいつまでも眠っている。ところが、生徒たちの魂が眠っているとも気付かないで、色々なものを次から次へと、詰め込もうとする滑稽事をあえてしながら、しかもそれと気付かないのが、今日の教育界の実情です。それというのも私思うんですが、結局は、われわれ教師に真に志が立っていないからでしょう。すなわち、われわれ自身が、真に自分の生涯を貫く終生の目標というものを持たないからだと思うのです。

 すなわちこの二度とない人生を、教師として生きる外ない運命に対して、真の志というものが立っていないところに、一切の根元があると思うのです。しかしそんなことで、どうして生徒たちに「志」を起こさすことができましょう。それはちょうど、火のついていない炬火で、沢山の炬火に火をつけようとするようなもので、始めからできることではないのです。」

森信三先生の言葉(『修身教授録 第34講』より)

 

ここに私が「志の教育」に全力で取り組もうとしている理由が、簡潔に言い尽くされています。

しかし、私が本質だと思うこの言葉に共感する人は、そう多くはありませんでした。

だから、私は、次の新渡戸稲造の言葉と共に生きていこうと思います。

「日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になり、あるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。(中略)。むかしの立派なる教育家貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等は、みな塾を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。人そのものが教育である。人が真に教育家なら笑っていても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充ち満ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。」

新渡戸稲造『自警録』より