産経新聞2013年11月30日

http://www.sankei.com/life/news/131130/lif1311300021-n1.html

わが国は火山列島であり、私たちの祖先の歴史は、火山の噴火や地震、さらには台風や津波などの自然災害との戦いの歴史でもあった。同時に、水と緑に溢(あふ)れる国土の海・山・川から、豊かな自然の恵みをいただき、深い感謝の念を抱いた。そこから生まれたのは、「自然を神として畏れ敬う」精神性だった。自然の美しさ、恵み、そして破壊力と恐ろしさは人智を超えたものであり、感謝と畏怖の対象として敬う以外になかった。科学技術の力で人間は確かに大きなエネルギーとコンピューターという頭脳を手に入れたが、未だに地震の予測も台風の制御も不可能だ。科学技術への過信が「自然を畏れ敬う気持ち」を失わせ、「文化の継承」を軽視させ、「言葉」を貶(おとし)めてきたのではあるまいか。

 昨今、食品偽装を巡る問題が喧(かまびす)しい。芝海老がバナメイエビであったとか、手こねハンバーグが手こねではなかったとか。しかし、それ以前に、糠(ぬか)漬けや沢庵(たくあん)をはじめとする漬物の多くは、もはや野菜の化学調味液漬けに過ぎず、レモン幾個分のビタミンC入りと謳(うた)った飲み物に入っているのはアスコルビン酸でしかなく、コーヒーフレッシュはミルクでなく乳化させた油でしかない。私たちの言葉と実体とはズレているのだ。それは悪意ゆえのものではなく、本来高価な物を安価に楽しんでもらおう、長期に保存できるようにしようという善意からのものも多い。

 だが、言葉の混乱は、価値観の混乱であり、文化の喪失でもある。例えば、「糠漬け」という言葉を使ったときに、もはや本物の「糠漬け」の味を知る子供はごく少数だ。お櫃(ひつ)や桶(おけ)を使ったことのない子供たちは、「箍(たが)が緩む」と言っても乾燥した木と「箍」をイメージすることなどできない。伝統文化を大切にすることは、祖先から受け継がれてきた国土の自然と生活様式とを大切にすることだ。そして、それは父祖の世代から受け継がれた言葉を誤魔化(ごまか)さぬ誠実さを持つことでもある。

 今日の教育の場にしても、どれほど誠実な言語空間を私たちは作り得ているのだろうか。限られた時間での多岐にわたる教育は、三錠飲まねば効かぬ薬を一錠しか飲ませぬが如き教育となり、問題が起これば「我々はちゃんと薬を飲ませている」と抗弁するようなことになってはいまいか。「実施すること」と「効果があること」とは別だ。教育行政には「絶対にやり遂げるべきことを完遂する責任」と共に、「やらないことを明確にする勇気」も大切なのではないか。それが言葉と行動の誠実さにもつながる。

 最近、ある方が、タイ人から「日本人はNATOだ」と言われたと書いていた。「NO ACTION TALK ONLY」「日本人は話ばかりで、意思決定をせず、行動しない」という意味だそうだ。行政や大企業のシステムは、往々にして個の成果も責任ものみ込む顔のない巨人となる。大きな組織のシステムとメンタリティーとが、言葉を実体のない血の通わぬものにし、個々人の活力や誠実さを奪ってはいないか。

 こうしたお家大事の姿勢は、戦後の日本経済を発展させたが、知らぬ間に日本人個々の「言葉と行動」を衰退させてきたのではないか。グローバル化の波が、国家間から企業間、そして、個人間にまで及んできた今日では、日本の自然・歴史・文化を体感し、生きた言葉と行動を磨くことを理念とした「個」を鍛える教育実践が重要だ。少人数であっても、私たちは真心を込めて、一人一人を大切にした教育実践を作り続けたい。

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