産経新聞2016年12月7日

https://www.sankei.com/life/news/161207/lif1612070021-n1.html

 バッカーズ寺子屋の合宿ではさまざまな体験を行う。海での釣りもその一つだ。各自が釣りの手順を聞き、仕掛けを準備し自力で釣り始める。釣り上げた魚はクーラーボックスに運び、夕刻には手捌(さば)きで内臓を出し、小麦粉を塗(まぶ)し揚げていただく。初めは怖くて魚に触れなかった子供も、次第に触れるようになり、夢中になって釣りを楽しむ。当初、釣りの体験は、海の豊かさ、手順を正確に聞き取る大切さ、命を頂くことへの感謝の3つを体感してもらうためと考えていた。だが、釣りにはもっと深い意義があることに気づいた。「さまざまなことにチャレンジする逞(たくま)しさ」を涵養(かんよう)するのだ。理論的裏付けはアルバート・パンデューラ博士の「ヘビ恐怖症克服の実験」を知って得られた。ヘビ恐怖症の人たちが少しずつ誘導され、触れるようになると「私はできなかったこともチャレンジすればできる人間だ」という自信を持ち、他のことに対しても無用な恐怖心や不安を持たなくなるというのだ。博士はこれらのプロセスを総称し「自己効力感(self-efficacy)」と呼んだ。

 魚を触れるようになった子供たちが、その後、生徒会や部活動等、学校生活でもさまざまなチャレンジを始めるのも釣り等の体験によって「自己効力感」を得たからと考えれば合点がいく。

 自信のない若者の増加はこうした体験の不足によるのではないか。学校で行われない体験が、学校教育を受ける児童・生徒を支える力を育む。私たちは教育問題とその原因との因果関係を見抜き切れてはいないのだ。経験則に改めて目を向け、そこに存在していた教育的意義に気づくことも大切だ。

 体験の持つ教育的意義に気づかぬ一方で、「人は意識せぬところで教育をしている」という厳然たる事実もある。「このように教育してやろう」と意図したところで、実際には教育者が心の底で思っていることの方が相手には伝わるのだ。

 《「真に人間教育と呼びうるものは、教師が意識しなかったところで授受される。(中略)「民主主義」や「平和」を教えても、先生自身がそれを身につけていないならば、生徒は結構、「利己心」や「闘争心」を養成される。そういう影響力は、教場においてもっとも強力に働くものです」(『日本への遺言』》。かつて福田恆存氏が指摘した通りだ。

 「アクティブラーニング」にしても、先生方の研修会で最前列から席が埋まるようでなければ、生徒が「アクティブ」に学ぶ日は来ない。アクティブラーニングの大切さを声高に叫んだところで、先生方の心の中にある「指名され、意見を言わされそうな前列に行きたくない」という「パッシブ」な心根の方が生徒には的確に伝わるからだ。

 一人の心の中の矛盾は教育力を削ぐ。九州の鉄道には床が木で作られた温もりのある車両が多い。水戸岡鋭治氏のデザインだが、導入に際して、木はコストが高いしメンテナンスが大変だからプラスチックにすべきだと鉄道会社の猛反対に遭ったそうだ。だが、反対する社員も自分の子供には木で作ったものに乗せてやりたいと言う。父親の立場と会社員の立場では言うことが違うのだ。水戸岡氏は著書で「人生は一つしかないのに、この矛盾が日本の国をダメにしているのでしょう」と語る。

 意識されぬ「日常に息づく教育的意義」と、「無意識に存在する心の中の矛盾」に対して如何(いか)に自覚的であるかが教育の成否を分ける。教育力とは結局、大人の次世代への願いと言行一致に比例して生み出される「言葉と行動の力」に他ならない。

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