孔子、ブッダ、キリストは、2000年以上も前に生きた人たちです。

2000年以上の時を経て、この3人よりも偉大な宗教家は出ていません。

全てがその流れを汲むものでしかありません。

共通するのは、人々を救い、人々に多くを与えてくださったということです。

孔子や仏陀やキリストの教えはもう古いからダメだという声も耳にはしません。

また、その宗教の信者で無くとも、敬意を払うことのできるものだと思います。

今の新興宗教に私が近づきたくないのは、与えることよりも、利を求める心、見返りを求める心が見え隠れしているからであり、敬意を払う気になれないからです。また、信じた結果、不幸になる人をも生み出している所があるやに聞いているからです。

勿論、敬意を払える人もいらっしゃるでしょうから、それをどうこう言うつもりはありません。

ただ、人に迷惑をかけたり、人の尊厳を奪うようなものであってはならないと思います。

宗教が人を作るというなら、「ああいう人が信じているのが○○教か。だったら私も入信してみてもいいかな。」ということになるのが自然の姿だと私は思います。現に、そう思ったこともあります。

そうならないということは、本物では無いと言うことだと思います。

本物の宗教のもとでは、本物の芸術が育つということを聞いたことがあります。

確かに本物の宗教画も彫刻も、生半可な人間理解と信仰心では生み出せません。

してみると、宗教とは、人々に心の救いを生み出そうとの大請願を立てた人間が、日々、求道者として真摯に生きてきた結果が生み出したものであり、それは人類の苦悩を共に背負う覚悟で、苦悩の日々を過ごした者の、やむにやまれぬ祈りなのではないだろうかと思います。