教育というのは、余計なお節介でしかありませんし、価値観の違いによって、平行線をたどるしかないものかもしれません。

しかし、そう思いつつも、将来、本人も周囲の人たちも、困るのでは無いかという余計な心配とお節介とで、進めていくしかないものだと思います。

そして、教育における正当性とは、信ずるに値する価値観を、真に受け継いでいるという自覚があるか否かということにならざるを得ないのかもしれません。

一方で、共に学び、教育を受けとっていく側も、素直さや聴く力がなければ、成長は覚束ないものとなります。だから、「つの付く歳」までの教育(つまり九つまでの教育)が、非常に大切なものになります。

「甘い教育によって、いろいろの自由を与えられた子供たちは、将来最も不自由な人間に育つであろう。なぜなら、彼らは、自由の最大の基盤である反省力と意力とが奪われるであろうから。」(下村湖人『心窓去来 補遺』)

この言葉は実に古い言葉ですが、何とも言えぬ新しさをもって、胸に迫ってきます。それほどまでに、うかうかと子どもを甘やかし過ぎて、身体だけが大きくなった子どものために手を焼き、大変な思いをすることになる親たちが多くなったであろうと感ずるからです。