「敬」という心の働きが失われたことが、社会に様々な問題を引き起こしているのかも知れません。私は、そう感じています。

『論語』に次の一節が見られます。

「今の孝は、是れ能く養ふことを謂ふ。犬馬に至るまで、皆能く養ふことあり。敬せずんば、何を以て別たんや。」

(訳)「子遊が孝についてたずねた。孔子が言った。「このごろの孝は、衣食などを整えて、親を十分に養うことをさしている。しかし、人間は、犬や馬でさえ食物を与えたりして、これを十分に養っている。もし親を敬う心が欠けていたら、犬馬を養うのとどうして区別できようか」と。

大人にも子どもを敬う気持ちが必要です。なぜなら、子どもたちは、未来を担う大切な人財であり、私なんかより、はるかに立派な人間になる存在だからです。

両親や祖父母を敬う気持ちも大切ですし、お年寄りを敬う心も大切だと思います。人生の先輩方であり、その方々のご苦労の上に、今の自分は存在していると思うからです。

今が未熟だとか、今が歳を取って忘れることが多かったり動作が遅いから、敬えないと思うのでなく、自分の心の中に「敬」の心を持ち続けることが大切なのだと思います。

互いに人を敬う気持ちがないから、人を見下したり、虐待したり、いじめたりということが、頻発するように思います。

男女の間にも相手を敬う気持ちがなければ、家庭も安定しなくなっていくと思います。

「敬」という概念があれば、人を殺したり、いじめたりは出来ないはずです。

古臭いと言われようとも、私は「敬」という考えを大切にしたいと思います。