産経新聞 2018年4月18日
https://www.sankei.com/life/news/180418/lif1804180021-n1.html
グローバル化、IT化、少子高齢化といった急激な社会変化に対応し、国際社会で経済的にもより豊かに生き抜いていくためには、語学力・人間力・ITスキルなど、今まで以上に必死に学び、能力を高めねばならない。一方で子供を産み育てなければ、日本の人口減少に歯止めがかからず国家は衰退する。だから子育て世代を中心に長時間残業を削減し、子育てに必要な時間を確保するのも重要だ。
巷間(こうかん)言われる「働き方改革」とは「能力の向上によって生産性を向上させ、労働時間を削減させる」ということであろうがそこに一つの矛盾がある。能力を向上させるためには、知識・スキルの修得や、仕事への熟練という、「時間をかけなければ修得できないこと」が必須だ。
だがそれは「時間を削減するために、多くの時間をかけなければならない」という矛盾に他ならない。技術革新もグローバル化も凄(すさ)まじいスピードで進んでいる以上、その変化に対応するしかない。いつの時代も生き残れる者は、強い者ではなく、「変化に対応できる者」だけだからだ。わが国の経済力や世界でのプレゼンスはじり貧状態だ。それを直視すれば父祖の世代以上に必死に働かなくては未来の豊かさはない。だから経営者たちの危機感は非常に強い。
こうした社会情勢の変化を踏まえ、学習指導要領改訂が進められている。「思考力・判断力・表現力」の育成を重視し、アクティブ・ラーニングを重視することは大切だ。問題はパッシブな人材を育て続けてきた日本の教育界の仕組みと、その中で過ごしてきた教師がどのように自己変革を遂げられるかだ。
私が公立学校教育の世界を離れ、外から見て感じてきたことは、日本の教育は思っていた以上に「受け身の姿勢」「考えない姿勢」がおのずと身につく構造になっているということだ。
年齢や偏差値で同質性の高い者を集めて教育すれば「同調圧力」が強く働く。「同じ年なのにそんなことも知らないの」というネガティブな意識が醸成されやすい。また、正解が常にある「受験」を前提とした「暗記」と「問題を解くこと」に重きを置いた授業であれば、どうしても「間違うことへの恐怖」が染みつく。さらに、修学旅行などでガイドさんの解説を聞き、後をぞろぞろと団体でついて行くスタイルも主体的な学びではない。こうした学びが、「できるだけ発言したくない」「間違えることは恥ずかしい」「みんなについて行けばいい」というメンタリティーを知らず育む。
学校の先生方の研修会では、多くの場合、会場の後方から席が埋まる。万一、指名されて間違ったことを言って恥をかきたくないからだ。かく言う私も以前はそうだった。しかし、パッシブな学びの姿勢の教師にアクティブに学ぶことが教えられるはずがない。
結局、何のために学ぶのかという個々の目的意識(=志)が、主体的な学びを生み出す。人は目的意識があれば、言われなくともアクティブに学ぶ。
教育改革において成果を出しうるのは、アクティブ・ラーナーによるアクティブ・ラーニングの指導や、志ある教師による志の教育だ。自分ができないことは他人には教えられない。
教育界の先達は、「人を教育するよりも、まず自分自身が、この二度とない人生をいかに生きるかに真剣で、教育というのは、いわばそのおこぼれにすぎないのです」(森信三)と語った。人さまをどう教育するかではなく、自分自身がどう生き、自分をどう成長させられるかが、その人の教育力となる。そこに教育改革の本質がある。
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