産経新聞2014年4月19日

https://www.sankei.com/life/news/140419/lif1404190008-n1.html

東京五輪誘致のプレゼンで話題になった「おもてなし」という言葉だが、「もてなし」を辞書で引くと、「ごちそう。取り扱い。対応」などとしか書かれていない。私たち日本人にとっては、「おもてなし」の「お」という接頭語のニュアンスや言外の意味こそが重要だ。それは、状況を判断し、相手が求めていることを、視線や表情やしぐさから読み取る「察する力」と、相手を敬い相手の心に寄り添った対応を大切にする「敬愛の心」の2つを要とする。それが世界でも希有(けう)な素晴らしいホスピタリティを可能にしている。

 しかし、教育という側面から考えると、この「察する力」には注意すべき点が多い。第一に、論理的に話をする力を育まない原因となり得ることだ。察してもらう言語環境下では、意思疎通で主体と客体を明らかにすることも、自分の意志を筋道立てて明確に伝えることも不要だ。例えば、子供が「ミルク!」と言えば、お母さんは冷蔵庫に行き、牛乳を取り出し、コップに牛乳を注いで、「はい、どうぞ」と出してあげる。この光景は、愛情に溢(あふ)れ微笑(ほほえ)ましいが、子供の側に伝える努力はない。最近の若者が単語でしか話せないといわれる原因の一つとして、親や祖父母が過度に察する言語環境もあるのではないか。単語で話す日常から論理的思考力は育まれない。

 第二に、自立心を育むことを阻害することだ。前述のような物言いは、相手に委ねる部分が大きく、甘えや依存心を温存する。察してもらうことに慣れていては、自分で考え、意思決定し、相手に伝える力は育まれない。その結果、自他の精神と格闘し、稚心を去り、自立する力も弱まる。

 では過去・現在を問わず自立した精神の日本人が多いのはなぜか。それは「敬語」が自他の関係性を意識させていたからではないか。古文では主語がよく省略されるが、敬語から主語を判断でき、主体と客体は常に意識される。

 また子の親に対する敬語も昭和あたりまでの手紙の中には当然の如く見られた。日本語で曖昧になりがちな主客の関係を明確にし、精神の自立を促すのが「敬語」の一つの役割ではないか。「敬う」対象があってこそ人は人格的に成熟する。「敬う」ことは相手と自分との立ち位置の違いや距離を意識することだ。その座標軸を過度に失ったために、若者たちはコミュニケーション力を低下させ、自立心を弱らせたのではないか。

 日本の未来にとって重要な意味を持つグローバル化は、多様な文化を前提としたローコンテクストな論理的言語力を必要とする。「以心伝心」「一を聞いて十を知る」は、生活・文化の共通性を土台とする日本のハイコンテクスト文化の中ならではのものだ。私たちが「察する」強みを残しつつ、コミュニケーション力と自立心とを磨くのであれば、方法は2つだ。1つ目は日本語を「敬語」を含めて大切にすること。2つ目は家庭でも学校でも説明を省略しない論理的な日本語を使うことだ。

 日本らしさを強みとするなら日本語を磨き、さらに他言語との比較によって日本語の弱点を知り、それを教育によって補うことが大切だ。子供たちが自分の行動の意味や意志を、また夢やビジョンや志を「言語化する力」を育む指導にその活路があることを私は日々の教育実践の場で実感している。

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