下村湖人の言葉は、親として、何度も読み返すべき言葉だなぁと改めて感じています。例えば、次のような言葉です。

「よき親でありたいと願う人々のために、私の用意している助言がただ一つある。それは、子供をその善悪に拘わらず常にいたわってやるということである。むろんそれは単なる技術であってはならない。
それは、人間共通の弱点について十分な知識を持ち、自分自身そうした弱点の持ち主であることを深く自覚するところから、自然に発散される感情の香気でなければならない。愛撫や、賞賛や、叱責や、教訓や、その他親としての一切の努めは、そうした感情の香気に包まれてのみ真に生かされるであろう。
この助言は、だから、つぎのようにいいかえることもできる。人間性に無知な親は親ではない。人間として傲慢な親は親ではない。自己をいつわる親は親ではない。親もまた子供と共に人生不断の修行者でなければならないのだと。」(『心窓去来』)

そして、次の言葉も心に響きます。

「子供は大人のまねをする。このことを大人が忘れさえしなければ、子供の教育はさほど困難なことではない。しかるに、世の大人たちは、ご苦労にも、子供たちに自分のまねをさせまいとして、いつも苦労し、それを教育だと思いちがいしているかのようである。」(『心窓去来 補遺』)

「子どもというものは、親に本当に信用されているという自信があると、めったにうそを言ったり、かくれて悪事を働いたりはしないものである。また、自分が興味をもっていることに、親も興味をもっているということがわかると、行動が活き活きとして来るし、年齢相当に能力が認められ、それにふさわしい責任が与えられると、大抵の困難に打ち克ってそれを果たすことができるものなのである。このことは、世の親たちに次のことを教える。それは、子どもをいかに教育するかを考える前に、子どもをいかに遇するかを考えなければならないということである。」(『心窓去来』)


色々なところでこれらの言葉を紹介していたつもりでしたが、どうやらこのブログでは、他の言葉を紹介していたようです。

下村湖人は、改めて学び直したい人物の一人です。