人間にも物事にも重みというものがあります。

当たり障りのないことを言ったり、やっていた方が、その場はうまくいくのだろうと思います。

確かに当たり障りのないことを言っていた方が、多くの人に受け入れてもらうことができますし、反対して足を引っ張る人も出て来ないと思います。

しかし、信念のないところに、教育の発展も、世の中の進歩もないのだろうと思います。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

と詠んだ、吉田松陰先生の境地には、遠く及びませんが、やはり、妥協をしてはいけないと思います。

心を尽くして、角が立たぬように心を配りつつも、言うべきことは言わなければならないと思います。

ただ、それ以上に、私はやるべきことを黙ってやり続けていようと思います。

その人や物事から受ける重厚な、また厳粛な感じです。

しかし、これはなかなか数値化できないし、理論的に説明しにくいものです。

この軽重が理解できない人が多くなったと私は感じます。

木を見て森を見ぬ議論もそうですし、鼎の軽重が問われるという場面においても、何が重いのかわからなくなっているように感じます。また、重箱の隅をつつくような批判や議論も目立ちます。

教養というものはそうしたところで物を言うものなのだろうと思います。

そうした教養につながる教育を軽視したツケはいつか必ず回ってくるのだと思います。

日本の自然や文化や歴史を軽んずる教育は、祖先の苦労を忘れる忘恩の徒を生み出すように思います。

しかし、そうした人たちも、悪気の無い、普通の良い人たちなのだろうと思います。

ただ、そうした人たちは、本当に深いところで感謝の心を持つことも、未来への責任を考えることもできぬ人たちなのかもしれません。

過去・現在・未来は繋がっています。

現在だけを考えて生きると言うことは、やはり、自分のことしか考えてないと言われても仕方が無いのだろうと思います。

過去の先人たちの中には、少なからず未来を生きる私たちのことを考えてくださった方たちがいたと感じます。

それは、私が、自然・文化・歴史を学ばなければ、感じることのできないものであったと思います。