子どもの教育とは、結局は教える人間が、不断の努力を重ね、自分を磨いていくことでしかないのだと、ようやくこの歳になってわかりました。世界的数学者、岡潔先生の仰るとおり、「人造り」などという言葉に無神経になった時点で、傲慢の誹りを免れないのだと思います。それは吉田松陰先生も仰っているとおりなのです。「教授は能はざるも、君等と共に講究せん」。(教えることはできないが、あなたたちと共に学びましょう)という言葉の奥深さが真に理解できて、はじめて本当に教育が見えてくるのだと思います。

次に、岡潔先生の『情緒の教育』の最初に書かれている所を少しだけ紹介します。

「六十年後の日本」

「私は人というものが何より大切だと思っている。私たちの国というのは、この、人という水滴を集めた水槽のようなもので、水は絶えず流れ入り、流れ出ている。これが国の本体といえる。ここに澄んだ水が流れ込めば、水槽の水は段々と澄み、濁った水が流れ込めば、全体が段々に濁っていく。それで、どんな人が生まれるかということと、それをどう育てるかということが、何より重大な問題になる。人という存在の内容が心であり、心が幼いころに育てられるとすれば、とりわけ義務教育が大切であることはいうまでもない。ただ、どう育てるかが問題だといっても、教育でどんな子でも作れるというのではない。本当は人が生まれるのは大自然が人をして生ましめているのである。各人はそれを自分の子と思っているが、正しくは大自然の子である。それを育てるのも大自然であって、人をしてそれを手伝わしめているのが教育なのである。それを思い上がって、人造りとか人間形成とかいって、まるで人造人間か何かのように、教育者の欲するとおりの人間が作れるように思っているらしいが、無知もはなはだしい。いや、無知無能であることすら知らないのではないか。教育は、生まれた子を、天分がそこなわれないように育て上げるのか限度であって、それ以上によくすることはできない。これに反して、悪くする方ならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである。しかし、恐ろしいものだとよく知った上で謙虚に幼な児に向かうならば、やはり教育は大切なことなのである。」

岡潔先生の本など、もうほとんどの先生は読まないだろうし、一顧だにしないであろうと思います。吉田松陰先生にしても同様です。だから、こんなことを書いても、もう誰も理解してくれないだろうとは思います。わかっています。しかし、絶望を乗り越えて戦い続けていくしかないと思っています。理解されずに、嘲笑われるだけの人生です。しかし、無位無冠で良いから、本物の教育を私は作り続けたいと思います。そして、そのバトンを誰かに手渡したいと思います。