産経新聞2015年8月5日

https://www.sankei.com/life/news/150805/lif1508050013-n1.html

 いじめによる自殺が起きる度に、校長たちは言質を取られぬよう官僚的答弁に終始し、担任は体調不良で姿を消し、評論家は学校や親のあり方をここぞとばかり非難する。そしてほとぼりが冷めれば、人々は何事もなかったかのように、見て見ぬふりの日常に戻る。『次郎物語』の作者、下村湖人は、次のような言葉を遺(のこ)した。

 「恐るべきは少数者の暴力である。しかし、一層恐るべきは多数者の無気力である。われわれは、前者が常に後者の温床において育つということを忘れてはならない」(『心窓去来』)。

 私たちは「多数者の無気力」といういじめの温床を醸成せぬ教育をしてきたのであろうか。

 戦後70年にわたって教育に欠けていたのは「プリンシプル」の教育だ。国籍・宗教を問わず人間を人間たらしめるのは、人としての行動規範(プリンシプル)だ。わが国に伝統的にあった「人としての道」を海外に明確に発信したのは、新渡戸稲造の『武士道』だが、その根底に流れている一つが「儒学」の精神だ。幼い頃から五常(仁義礼智信)の徳を養い、五倫の道(父子の親、君臣の義、長幼の序、夫婦の別、朋友(ほうゆう)の信)を身につけ、人格を磨くことが尊ばれた。こうした教育は「素読」や「物語を読むこと」を通して、子供の情緒に沁(し)み込むように教えられていた。

 戦いの物語にしても、武勇と正義に胸躍らせつつも、敗者の心の痛みや哀(かな)しみにも思いを致すことが大切だ。人間の心の複雑な動きを感じ取る体験が子供の心と人格とを育む。このような教育を失ったから、私たちの社会は「まごころ」や「思いやり」を失い、甚だしきは激情に駆られ、親殺し子殺しをする禽獣(きんじゅう)の如(ごと)き者をも生み出した。

 もう一つ欠けているのは、「尚武の気風」だ。戦後70年にわたって「武」を尊ぶことは非難されてきた。国家権力は悪だと指弾され、警察も自衛隊も正義の「力」の行使ができず萎縮した。学校も同じだ。何かもめ事を起こせば喧嘩(けんか)両成敗の名の下に正義は葬り去られる。道義や弱き者を守るために闘っても、非難されるだけなら、教師も生徒も見て見ぬふりをするのが得策だ。中学生にもなれば腕力もついてくる。教育の場であれ何であれ「力」を制するためには、同等以上の「力」が必要であり、「力」を使わずに抑止するには、強い「気迫」や「胆力」が必要だ。それらなくしていじめられている子供を守ることなどできはしない。

 尊厳が「暴力」によって踏みにじられようとするとき、抗(あらが)う「力」と「勇気」が必要だ。「力」で敗れたとしても尊厳を奪われぬ意志を示すことが人の人たる所以(ゆえん)だ。「力」を「暴力」にせぬためには徳を高め、胆力・勇気、自制心や忍耐力を磨いておかねばならない。幼き頃からプリンシプルを確立する教育が必要なのだ。それが「多数者の無気力」や「利己的無関心」に付ける唯一の薬となる。

 「社会生活において、悪の力が本来善よりも強いのではない。悪人の無遠慮な団結力や行動力が、善人の利己的無関心さや孤高を装った卑怯(ひきょう)さに打ち勝つのである」(『心窓去来』)

 こうも書き遺した下村湖人は、中学の校長でもあった。こうした深い人間観と教育哲学が現場の教育者から失われたこともいじめの遠因だ。教育の成果を偏差値や進路という物差しだけで見るのではなく、一人一人の心の育ち方や人格の成長をこそ丹念に見るべきだ。それは表情や態度や言葉に表れる。子供を見る深さは、親や教師の人間観の深さに比例する。真摯(しんし)に学ぶべきは私たち大人なのだ。

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